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言の葉と文字列のあいだ

少しの間、あなたの時間をください。

二重国籍問題の論じられ方に関する違和感

 はいはい「二重国籍」のお話です。

 先に断っておきますが、今回の記事で私は政治的主張を繰り広げるつもりは毛頭ありません。ただ、民進党の臨時党大会も終わり、大方の予想どおり蓮舫議員が代表になったそうですので、もう何を書いても政治的な意味はないと思いますので、この記事を公開することにしました。もし政治的意図があるなら、代表選の前に公開すればいいことですしね。

 私は、純粋に法務の視点からこの問題の論点を提示したいと思います。この場合、いったい二重国籍であることの何が問題なのでしょう?

 まず最初に個人的なスタンスを表明しておきますが、私は両親が日本人で出生も日本国内であるため、日本国籍しか持っていません。しかし、日本国内にも二重国籍あるいは三重国籍という方が少なからずいらっしゃって、「国籍を自ら選択できる」ことは、選択肢が多くあるという意味ではうらやましく感じたりもしますし、例えば自分の子どもに二重国籍を持たせるためにあえてハワイなどに行って出産したりする夫婦がいらっしゃるというのもよく聞く話です。一方で、重国籍の方の中には、多くの苦悩や葛藤を抱えている方がいらっしゃるということももちろん存じております。

 しかし、日本には「国籍法」という法律があり、法律上は重国籍を認めていません。この問題に関して、今日のニュースで、法務省があくまで一般論としてですが国籍法違法に当たる可能性があるとの見解を示しました。ただし罰則はありません。

headlines.yahoo.co.jp

 問題となっている国籍法の規定は、以下の部分です。

第十四条 外国の国籍を有する日本国民は、外国及び日本の国籍を有することとなつた時が二十歳に達する以前であるときは二十二歳に達するまでに、その時が二十歳に達した後であるときはその時から二年以内に、いずれかの国籍を選択しなければならない。 

 2 日本の国籍の選択は、外国の国籍を離脱することによるほかは、戸籍法の定めるところにより、日本の国籍を選択し、かつ、外国の国籍を放棄する旨の宣言(以下「選択の宣言」という。)をすることによつてする。

(中略)

第十六条 選択の宣言をした日本国民は、外国の国籍の離脱に努めなければならない。

 この第14条と第16条の規定です。蓮舫議員は、日本の「国籍を選択」(第14条)し、「外国の国籍を放棄する旨の宣言」(第14条2項)は行っていたが、実際には「外国の国籍の離脱」(第16条)を行っていなかった、ということになると思います。簡単に言うと、約束したけど守りませんでした、ということです。

 これに関して、主に蓮舫議員を擁護する立場の方から、公然と第16条は「いわゆる努力規定だから守らなくても違法ではない」とか「罰則がないのだから問題ない」といった意見が論じられているのを見ていて、私は強い違和感を感じていました。私は国籍法の専門ではありませんが、法務に関わる人間の一人として、こういう論理は看過できません。

 私は、重国籍の方がみな違法行為を行っているからけしからん、というつもりは全くありません。最初に申し上げたように、国籍というのは、その人の家族やルーツの問題であったり、生活や就労の問題であったり、政治や宗教の問題であったり、いろいろな背景があることであり、やむを得ず重国籍のままである方もいらっしゃるでしょうし、それ故に深い苦悩や葛藤があるのだろうと思います。そして、だからこそ「努力規定」になっているのです。今日の法務省の見解も、個別・具体的な事案ごとの判断になるので一概には言えない、とされています。

 では、蓮舫議員のケースでは何がいったい何がそんなに問題なのでしょうか。

 私が考えるポイントは、たった一つだけ。

 私は、蓮舫議員が「議員」であるからこそ問題なのだと思うのです。参議院議員であるということは、国権の最高機関たる立法府を構成する一員であり、法律を「作る側」の人間だからなのです。

 努力規定であっても、法律は法律です。仮にも国会議員が、この法律のこの規定は努力規定だから守らなくてもいいとか、罰則がないから問題ないとか、そんな理屈が通るわけがないのです。一般の公務員でもそんな理屈は通りません。自分は日本人だと思っているとか日本を愛しているというのも、素晴らしいことだとは思いますが感情論です。

 守らなくていい法律は最初から作られません。努力規定であっても、罰則がなくても、法律を守ることは日本国民の義務であり努めであり、それを範をもって示すべき国会議員が、それを作る側の人間が「守らなかった」ことが問題なのです。あるいは、「守らない人」が国会議員になったことが問題だと言えるかもしれません。実際に、蓮舫議員はあっさり台湾籍を離脱したわけですから、「選択の宣言」をしたにも関わらず「離脱に努め」ていなかったことが結果的に明白になってしまったわけです。

 これから、蓮舫代表のもとで民進党は、法案を国会に提出することになると思います。条文に「努力規定」が入ることも当然あるでしょう。ではその努力規定について、もし私が与党の人間だったら、民進党に対して「この条文の努力規定は御党では別に守らなくていいという見解なんですか?」と質問すると思います。だって、代表が守る気なかったんじゃん、という話です。それが、法律を作る側の人間が背負う十字架であり、「覚悟」なのです。

 蛇足ですが、私は今回のことは、蓮舫議員が仮にどこの党の所属であっても、いかなる人物であったとしても、一切関係なく批判していました。そのスタンスは留保しておきたいと思います。国会議員が、ちょっと法律に対する認識が甘くないかな?あなたたちはいったい何をするために存在しているの?ということをよくお考えいただきたいと思います。

 真剣に法律を学ぶ一人の人間として、あえて苦言を呈しました。 

 では。

そうか、あれは「共感性羞恥」だったのか

 先週の水曜日の夜、日本中を駆け巡った衝撃。「マツコ&有吉の怒り新党」番組中に、突如不穏なナレーションが流れ、視聴者がざわつき、Twitterのトレンドも動いた。

 僕もざわついた。

 みんなざわついた。

 そうか、例のアレ。確かに気にはなっていたし、何か自分は人と違うなという感覚はあったのだけど、名前があったのですね。その名は「共感性羞恥」。

togetter.com

 僕は完全にコレです。かなり重症かもしれません。番組の中で、500人のアンケートで「経験あり」と答えた人が10.4%、「経験なし」と答えた人が89.6%と紹介されていましたけど、皆さんご指摘のとおり、僕のTLでの観測では、もっと多いんじゃないのかなあという印象です。

 というか、これってかなり普通の感覚なんじゃないかと思っていたので、89.6%の「この感覚が分からない」という人の感覚が分からなくてショックでした。

 89.6%の「共感性羞恥」が分からない人は、Togetterを見てもらえばいろいろ具体的な例が挙がっていますが、僕が一番苦手なのは、

 ザ!鉄腕!DASH!!』の「0円食堂」

 あれが本当に苦手。他の企画は見られるのに、これだけはどうしても見られない。逆にどうしてみんなアレが平気なのかが分からなかったのです。ふと思い出して自分のツイートを検索してみたら、1年半ほど前にその疑問に言及しておりました。

 答えはこれでした。時空を超えて疑問が解決しました。

 あと『モニタリング』とかも全くダメで、気持ち悪くなってすぐチャンネルを変えてしまうのだけど、多分このせいですね。

 テレビ番組であれば別にチャンネルを変えればいいことなのだけど、日常生活でも無意識に避けている場面があるような気がします。今のところ仕事にも日常生活にも支障は感じていませんが、そう考えるとやはり何だか少し生きづらいかもしれませんね。

 これからは、「共感性羞恥」を感じる稀少種として、実生活上の何らかの利点やらメリットやらを探して生きていきたいと思います。そんなもの、ないのかもしれませんけど。

 では。

オリンピックは一体「誰が」開催するの?

 こんにちは。

 リオデジャネイロオリンピック、閉幕してしまいましたね。個人的には、スポーツの興味は90%ぐらいサッカーにもっていかれているので、サッカーに関しては今回はとても残念でした。しかし、このオリンピックがあったからこそ、その最終予選を兼ねた「AFC U-23選手権2016」、あのドーハでの伝説の日韓戦が見られたとも言えます。オリンピックはやはりたくさんのドラマを生むのですね。

 そして、普段はスポーツにあまり興味がなくても、やはり表彰台の一番高いところに日本代表の選手が立ち、一番高いところに日の丸が掲げられ、君が代を斉唱する、その瞬間にはやはり胸が熱くなる思いというのを感じた方も多かったと思いますし、僕も感じました。やはりオリンピックっていいなあ、と改めて思いました。

 次は2020年の東京オリンピックですが、こちらはエンブレムの盗作騒動だの新国立競技場建設計画の白紙撤回だの、ついでに都知事が次々辞職するなど、つけられるだけのケチが全部ついたような印象で、誠に情けない感じです。今回のリオオリンピックでも競技者の育成と競技力の向上が実を結びつつあると実感させてくれる成果だったと思いますので、ぜひここから4年間で運営の方も立て直して、また世界を感動させてほしいと思います。

 ただ、これから4年後の東京オリンピックに臨むにあたり、これって一体「誰が」招致してきて「誰が」開催するの?という話を、ちゃんと整理しておくべきじゃないかと思いました。特に報道などでは、そこがきちんと説明されないことが多いので、論点がずれてしまっているということがよくあるという印象を受けます。

 例えば、FIFAワールドカップは「開催国」って言いますよね。それに対してオリンピックは「開催都市」と言います。ブラジルは、2014年にFIFAワールドカップを、2016年にオリンピックを開催しましたが、FIFAワールドカップは「ブラジル大会」、オリンピックは「リオデジャネイロオリンピック」でした。

 そう、オリンピックは「都市開催」なんですね。2020年東京オリンピックは「東京都」が主になって招致をしました。

 実際に、オリンピック招致の是非に関してはきちんと都民の民意は問われています。まず2007年の東京都知事選。このときは2016年大会の招致が最大の争点でしたが、それを公約とした石原慎太郎氏が大勝しました。その後、招致ではリオデジャネイロに敗れましたが、2012年の都知事選で、次の2020年大会の招致を公約とした猪瀬直樹氏が圧勝しました。その後、招致に成功して現在に至っているという流れがあります。

 東京都民は、二度の都知事選で意思表示をし、その民意を背景に東京都が招致活動を行ってきたわけです。逆に言えば、それ以外の道府県民は何らの意思表示も支持もしていないわけです。当然ですよね、「都市開催」なのですから。

 ここまではよろしいでしょうか。

 

 さて、ここで昨日のこのニュースです。 

news.tv-asahi.co.jp

 僕は東京都民ではないので、このニュースを見たときには正直イラッとしました。都知事が東京オリンピックの費用負担について国側を牽制した?何を言っているの?国民全員に費用負担を要求しているの?何だか論点が変わってきてない?という話です。都民以外の道府県民がいつ東京オリンピックの開催と費用負担に賛意を示したのか。なぜ住所地でない自治体の知事に費用負担を要求されなければならないのか。僕は別にオリンピックの開催に反対しているわけではなく、どちらかと言えば賛成なのですが、今のところその意思表示の機会もありません。東京オリンピックを歓迎する「雰囲気」は確かにありますが、費用負担は「政策」であり、それを雰囲気で判断するのは非常に危険です。

 東京都が費用負担をするのは当然として、その経済効果は国全体に波及するのだから国が一定程度負担するべきという考え方もあり、それはある程度は許容しても構わないと個人的には思います。しかし、何を一地方自治体の知事が偉そうに牽制なんかしているの?と思うわけです。違うでしょ、国に、国民に「お願い」するんじゃないの?

 何でしょうね、この違和感は。

 一つ、例を挙げてお話しします。新国立競技場の問題です。

 新国立競技場は「国立」の競技場なので、建設費用は原則として国が賄うべき、というのは当然だと思いますが、その上で、以下の5つの議論のポイントを示しておきたいと思います。

  • 新国立競技場は国民の費用負担による国民の財産であって、都民は国民の構成員の一部にすぎない。
  • 新国立競技場は東京オリンピックに「間に合うように」建設するのであって、東京オリンピックの「ために」建設するのではない(元の計画では2019年のラグビーのワールドカップに間に合うように建設することになっていましたけど)。
  • 東京オリンピックに間に合わせるため、またメイン会場としての仕様を満たすために建設費用が高騰してしまっているが、それも主に東京オリンピックのためであり、他の道府県(民)はその意思決定に参加していない。
  • 設計段階で聖火台がないというミスが発覚し、施主である日本スポーツ振興センター(JSC)が非難されたが、聖火台は「東京オリンピックのために必要」なのであり、東京都は国に「設置をお願いする」立場にある。競技場として、聖火台は別に必置の施設ではない。
  • そもそも国民が費用負担をする「国立」競技場なのだから、別に東京に建設しなければならないという決まりもない。旧国立競技場が東京にあったのだから、新国立競技場は例えば大阪に建設するべきとか福島に建設するべきという議論があっても構わない。他の道府県(民)は、オリンピックのために東京に「譲っている」とも言える。

 このポイントは理解しておいてほしいと思います。 

 その上で、古いツイートで恐縮ですが、東京大学名誉教授でいらっしゃる、かの上野千鶴子大先生のツイートと、恐れ多くもそれに引用RTでつっこむ僕のツイートを貼り付けておきましょう。 命知らず。

 都知事も都議会議員も都民が選挙で選んだんじゃないのかっていう正論はここでは遠慮しておくとして、どちらの意見が筋が通っていると思うかは皆さまのご判断にお任せしますので、ぜひ考えてみてください。ちなみに、ご本人からのリプはもちろんいただけませんでしたが、お忙しい方でしょうから、僕ごときの戯言にかまっている時間はないのでしょう。

 あと細かいようですが、一応法務もやっているのでその立場から付言させていただきます。損害賠償を求めるというお話であれば、それは「行政監査請求」ではなく「住民監査請求」だと思われます。これらは全く別の制度です。さらに、住民監査請求の対象は地方公共団体の長、委員会、委員、職員と法律で決められておりまして、議会は対象ではありません。都議会での議決に対して監査を請求することなんかできないに決まっているじゃないですか。地方自治法、大切な法律だと思うけど興味ないのかしら。

 

 先だっての都知事選のときにも思いましたが、マスコミも政治家も、あたかも「東京の問題=日本の問題」であるとでも言いたげでしたね。一地方自治体の知事選挙のニュースをどうして毎日毎日テレビで取り上げなければならないのか、僕はかなり違和感をもっていました。東京都のGDPスウェーデンの国家予算に匹敵する規模で、知事は「大統領並み」の強大な権限があるのだから、都知事選は全国民にとってとても大事なニュースなんですよ、などとエクスキューズをつけているニュース番組までありましたけど、予算規模が大きいだけで外交や国防の権限もない地方自治体の長が「大統領並み」なわけがないのです。

 ただ、東京オリンピックは、国と地方の関係とか日本と東京の関係とか、そういったものを見直す良い教材ではあるかもしれません。今のうちにその関係性をきちんと整理しておくと今後のニュースが分かりやすいかもしれませんね。

 では。

遅ればせながら「語彙力」に関する考察

 8月18日に突如流行した、「日本語ボキャブラリーテスト」というサイトと「#私の語彙力」というハッシュタグについて、僕がテストの結果を公開した上で続けて私見をツイートしたところ、そちらに予想外にざわざわと反響があったので、ツイートでは言葉足らずで説明ができなかったことを、記事に残しておきたいと思います。

 この「日本語ボキャブラリーテスト」に関しては、正答率や評価規準が明示されませんので、どこまで適正なものなのかも検証のしようもありません。僕は夏目漱石レベルだそうですが、どういうエビデンスがあるのかも分からないし、どうやって夏目漱石ボキャブラリーを評価したのかも分かりません。まあ、このあたりはお遊びなのでだいぶサービスしてくれているんだな、という感じでよろしいかと思います。

 さて、こういうツイートに反響があるということは、フォロワーさんに読書クラスタの方が多いというのもあると思いますが、「語彙力」というものに対する関心が高いのだと思います。「語彙力に自信がない」とか「どうやったら語彙力が高まるのか」という思いをもっている方もいらっしゃるのかもしれません。僕自身も、正直に言うと語彙力がすごく高い方だとは自分では思っていません。社会人として、必要十分な程度を何とかキープし続けている、ぐらいの感覚です。

 そういうわけなので、僕から「こうやったら語彙力が高まります」みたいなアドバイスをしても説得力がありませんが、一応ツイートの意図を補足しておきます。

 まず、「語彙力」というのは一般的に「どれだけ多くの単語の知識を獲得しているか」というような定義ができると思います。僕の言葉で言い換えると、言葉の意味と使い方をどれだけ自分のものにしているか、というような感じだと思います。

 例えて言うと、生活の中での語彙というのは、「靴」のようなものだと思うのです。靴は、白くて清潔なデッキシューズが一つあれば、日常生活には困らない程度にはどこにでも行けますよね。ただ、ビジネススーツに白のデッキシューズを履いて仕事に行けばそれは白い目で見られることでしょう。あと、冠婚葬祭もありますしパーティーもあるかもしれませんが、白のデッキシューズで行くと恥ずかしかったり場違いだったりしますよね。山や海に遊びに行くときも不便ですし場合によっては危険ですね。一足の靴があれば、生活する上でだいたいの場面はしのげるのですが、時々恥ずかしい思いをしたり不便な思いをしたりするんです。だから僕は、ビジネスシューズやランニングシューズ、ドレスシューズ、ビーチサンダルと言った、場面場面に合うように靴を買い揃えていくわけです。語彙というのも、そういうものだと思うのです。

 一つの言葉を知っていれば、その意図は相手に伝達することはできるかもしれません。伝達できればそれでいい、と考えるなら、滅多に履かない靴はいらないと考えるのも無理はないでしょう。でも、できれば場面場面に合った「身だしなみ」を調えたいものですよね。僕は、語彙力はその「身だしなみ」のようなものだと思うのです。

 幸い、語彙力は靴と違って基本的に「タダ」で得られるものです。本でも雑誌でもネットでもかまわないので、誰かの素晴らしい「言葉」に触れ、「自分もこんな風に言葉を使ってみたい!」と興味を持つことがまず良いのではないかと思います。知らない言葉が出てくれば「知りたい!調べよう!」と興味を持ちましょう。そして、まずその言葉の正しい意味と使い方を覚え、その人の「影響を受ける」といいと思います。日常会話でもブログでもTwitterでもいいので、それをどんどん使って自分のものにしていく、言葉のバリエーションを獲得していく、それを繰り返していけば、語彙力というのは加速度的に高まっていくものではないかと思います。

 一昨日のツイートの真意はこんな感じでした。僕のTLには、毎日本当にきれいな言葉、おしゃれな言葉、豊かな言葉を使ったツイートが流れてきます。僕もたくさん影響を受けさせていただいており、感謝してるし楽しみにしています。

 「言葉」って興味深いですよね。

 では。

池井戸潤さん『架空通貨』を読んで

 こんにちは。今週は、猛暑で多忙で腹痛という三重苦に苛まれましたが、何とか乗り越えて無事土曜日を迎えています。

 今日は、読書とそれに関する簡単な思考実験の記事を書こうと思います。文字数多めですが、やさしく書くように心がけますので、よければゆっくりお読みいただけると嬉しいです。

僕がしばしば言及する「ローラー」とはいったい何なのか

 僕は現在、「池井戸作品ローラー」というのを個人的に展開しておりまして、要は池井戸作品で未読のものをできるだけ刊行順に全部読んでいっているのです。先日、デビュー作の『果つる底なき』を読み、今回はデビュー2作目の『架空通貨』を読んだという次第です。

架空通貨 (講談社文庫)

架空通貨 (講談社文庫)

 

 池井戸さんはそんなに多作の作家さんではないのですが、今までに読んだのは、

  • 『果つる底なき』※ドラマ化
  • 『架空通貨』(旧題『M1』)
  • 『銀行総務特命』※ドラマ化
  • 『株価暴落』※ドラマ化
  • 『不祥事』※ドラマ化
  • 『オレたちバブル入行組』※ドラマ化
  • シャイロックの子供たち』
  • 『空とぶタイヤ』※ドラマ化
  • 『オレたち花のバブル組』※ドラマ化
  • 『鉄の骨』※ドラマ化
  • 『民王』※ドラマ化
  • 下町ロケット』※ドラマ化
  • 『かばん屋の相続』
  • ルーズヴェルト・ゲーム』※ドラマ化
  • 『ロスジェネの逆襲』
  • 『七つの会議』※ドラマ化
  • 『ようこそ、わが家へ』※ドラマ化
  • 銀翼のイカロス

以上の18作品。ご覧のとおり、ご存じのとおりもう池井戸作品はドラマ化の嵐で、僕のリストも見てのとおりです。ドラマ化されていない『ロスジェネの逆襲』や『銀翼のイカロス』も「半沢直樹」シリーズの続編で、一時期ドラマ化や映画化の噂がありましたね。多分もう無理でしょうけど...。

 それに対して未読の作品は、

の9作品。『下町ロケット2』は早く読みたいのですが、文庫化はまだ2年ぐらい先でしょうから、またお財布に余裕のあるときに買いたいと思っています(ドラマは見たのでストーリーは先に知っちゃっているのですが...)。それにしても、ご覧のとおりこの未読の作品群の非ドラマ化率よ。

 僕が何を言いたいかと言うと、これが僕が今まで繰り返してきた「○○作品ローラー」の一番辛く苦しいところなんです。これを僕は「ローラーの沼」と呼んでいます。

 ある作家さんに興味を持つと、やはり最初に手に取るのはどうしても代表作品や有名作品、映像化された作品など、「面白い」作品になるのは仕方がないことだと思います。そういう作品は文学賞を取っていたりすることももちろん結構あります。そして、そういう作品は当然面白いからもっと読んでみたくなり、どうしても「面白そうな」作品から順次読んでいくことになります。

 僕はこの段階で、ローラーをやるかやらないかの判断をします。もちろん圧倒的にやらないことの方が多いのですが、池井戸さんはローラーをやろうと決めたのです。

 Twitterには書いたことがあるのですが、僕は大学が文学部独文科の出身で、ドイツ文学の研究をしていました。その当時、僕の卒業論文の指導をしてくれた教授に厳しく指導されたことは、次のことでした。

  1. 必ず原語(ドイツ語)で読め。日本語訳を読んでもいいが、日本語訳を読んだだけで論文を書くな。
  2. 必ずその作家の全ての作品を読め。テーマに選んだ作品を読んだだけで論文を書くな。

 この指導には僕も本当に苦しめられたわけですが、文学研究者としては当然と言えば当然のことだと思っていました。実は、僕はこの2つの教えを、大学を卒業してからも割と守ってきています。

 1.の教えから、大学卒業後、僕は翻訳作品をあまり読まなくなりました。翻訳作品が悪いということではなく、僕が原語で読むことができないからです。日本語でしか絶対に表現できないことがあるように、英語には英語独特の言い回しとか、ドイツ語にはドイツ語独特のリズムとか、原語でしか表現できないことが必ずあります。例えば、僕が最も美しい日本語作品の一つと考えている、川端康成さんの『雪国』が日本で初めてノーベル文学賞を取りましたが、選考委員はいったい何語で『雪国』を読んだのでしょう。ちゃんと日本語で読んだのでしょうか?あの日本語の美しさ、繊細な日本語が紡ぐ情景をきちんと感じて、選考をしたのでしょうか。『雪国』は、日本語でなければ絶対に表現できない作品だと僕は信じています。日本語の美しさ・繊細さを考慮していなかったとすれば、それは翻訳者が川端さん以上のすごい書き手だったか、あるいは単なるプロットの評価ということになるのではないかと思います。村上春樹さんも、選考委員がもし翻訳でしか読んでいないのであれば、ノーベル文学賞は取らなくてよいのではと思っています。文学賞の受賞で作品の価値や意味が変わるわけじゃないですしね。

 話が逸れましたが、もう一つ、2.の教えがつまり「ローラー」なのです。その作家さんを知りたい・理解したいと思ったら、さらにはその作品を本当に理解したいと思ったら、できるだけその作家さんの全ての作品を読むべき、と僕は考えているのです。

 ちなみに、今まで僕は「伊坂作品ローラー」「東野作品ローラー」「有川作品ローラー」「森見作品ローラー」「村上春樹長編作品ローラー」あたりを実施し、今「池井戸作品ローラー」を進めているわけですが、皆さん、この中で一番きつい(きつかった)のは誰のローラーだと思いますか?

 そう、東野圭吾さんです。東野さんは本当にきつかった。東野さんは「ローラーの沼」が無限に深いんですよ。

 東野さんは非常に多作の作家さんで、もう小説だけで90作品を軽く超えています。『容疑者xの献身』や『白夜行』、『秘密』、僕が大好きな『時生』や『悪意』など名作もすごくたくさんあり、こういう作品を読んだ方はきっと東野圭吾さんすごい!面白い!とファンになると思うのです。実際すごいですし。僕ももちろんそうで、まだ10作品ぐらいしか読んでない段階で「これはローラーをやろう!」と決意を固めてしまったのです。実際、40~50作ぐらいまではどんどん読めたのですが、そこからは本当に苦しみました。僕と同じようにローラーをされた方はご存じだと思いますが、東野圭吾さんという作家は、ものすごく当たり外れがはっきりしている方なのです。面白い作品は突き抜けて面白いのですが、面白くない作品はびっくりするぐらい面白くないのです。忘れもしません、僕が東野作品ローラーの最後に選んだのは『美しき凶器』という作品なのですが、さすが最後に残ってしまう作品だけあって、もう引くぐらい面白くなかったです。これを読み終えたときには、もう達成感以外何の感想もなかったぐらい。でも、それが東野圭吾さんという作家の在り方であり、姿なのだと思います。ここまで読まないと見えてこないのです。つまらないと言われている『美しき凶器』や『ダイイング・アイ』、『殺人の門』などもまた、東野作品なのですから。

 ちなみに、一番当たり外れがない作家さんは、僕が読んだ中では有川浩さんでした。どれを読んでもしっかり面白く、「ローラーの沼」を全く感じなかった唯一の作家さんです。寡作の作家さんですが、それもまた有川さんの作家としての在り方、姿です。

 そう、通常ローラーというのは、どうしても後になるほど「面白くない」作品を読まなければならなくなってくるのです。今「池井戸作品ローラー」を実施している僕は、「ローラーの沼」にはまりつつある、このあたりが分水嶺ではないかと感じています。読み終わったばかりの『架空通貨』についても、感想は読書メーターに簡単に書きましたのでリンクを張っておきます。池井戸さんのデビュー2作目ということで、すごく気合が入っているのが分かるのですが、設定を盛り込みすぎ、説明しすぎ、登場人物多すぎで、ものすごく物語が難解です。『半沢直樹シリーズ』や『下町ロケット』のような分かりやすい物語がお好きな方は、かなり読みづらいかもしれません。

bookmeter.com

 そして現在、引き続き池井戸さんの『仇敵』を読み始めています。何とか一度沼から救われるとありがたいなあと思っていますが如何。

『架空通貨』を読んで考えた、「1,000兆円玉」の話

 ところで、この『架空通貨』という作品に出てくる「架空通貨」というのはいったい何なのかというと、ある地方の企業城下町で、その中心にある企業が「振興券」(簡単に言うと社債のようなもの)というのを独自に発行していて、それがその城下町であたかも通貨であるかのように流通し始め、それによってその町の経済がどんどん蝕まれていっている、というようなものなのですが、これを読んで、ちょっと経済について考えてみる契機にはなりました。作品の中でも、「経済って何だろう」「通貨って何だろう」という視点をもっと掘れば、この「架空通貨」のアイデアがあればすごく面白かったかもしれないと思いました。

 全く関係ないのですが、少し前から日本政府の借金が1,000兆円を超えているというニュースが盛んに喧伝されていて、国民一人当たり800万円の借金を背負っていることになるんですよ、この借金を子や孫の世代に先送りしていいんですか、みたいな論調もよく聞きますよね。これはソースが財務省で、歳出削減と消費増税を省是とする組織ですから、まあそういうことを言うわけですし、テレビの報道もなぜかそれを検証したり論評したりせずにそのまま国民に伝えてしまっているという印象を受けます。

 実際には、諸説ありますが、政府の借金は国民の借金とイコールではないですし(政府が破綻すれば国民の受ける行政サービスが著しく低下することは事実ですから、無関係ではありませんけど)、政府には借金がある一方で可処分資産というのも膨大にあり、政府の借金というのはそれらを相殺した額になりますから、国のバランスシートを見れば実は先進国の中でもそんなに借金が多い方ではないというのが通説のようです。3,000万円の住宅ローンを組んで3,000万円のマンションを買えば、その家の借金は確かに3,000万円なのですが、実際にはマンションの価値と住宅ローン残高を相殺した額がその家の資産になるわけで、それと同じようなことでしょうか。また、国債は今のところほとんど日本国内で保有されているので、1,000兆円の国債を発行しているということは、国民と日本銀行がその分の安全資産を持っているとも言えるわけです(これは麻生財務大臣が発言していました)。

 とは言え、1,000兆円の借金は確かに政府の予算編成の足かせにはなっています。景気回復やデフレ脱却の効果が薄い一つの原因ではあるかもしれません。

 ここで、以前にテレビで竹田恒泰さんが言っていた、政府が「1,000兆円玉」を1枚発行して日本銀行に預ければそれで政府の借金などなくなるのではないか、という話を思い出したのです。もちろん、大前提は「多分政府はそんなことはやらない」なのですが、思考実験の材料としては面白いなあと思いました。もちろん、「1,000兆円玉」は市中に流通しませんから「架空通貨」ですよね。

 僕は経済の専門家ではないので、事実誤認などあるかもしれませんが、プライベートなブログの記事なので、全面的にお許しを...。先に謝っておかないとね。

 まず、なぜ「玉」なのか。これは竹田先生もご説明されていました。

 紙幣は「日本銀行券」と言って、「通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律」(以下、「通貨法」)の規定で日本銀行しか発行できないことになっています。日本銀行は、「中央銀行の独立性」が制度上担保されているため、極端なことを言えば政府にいくら借金があろうが直接的には全く関係ないわけです。現在日本銀行が異次元の金融緩和を行っているのも、政府に協調しつつも日銀独自の判断で実施しているわけです。また、1,000兆円借金があるなら1,000兆円分の一万円札を印刷すればいいんじゃね?という考え方も、上記の「通貨法」の規定によって禁止されているということと、インフレを嫌う日銀がそんな懸念のあることは行うはずがないということになると思います。実際、第一次世界大戦後にドイツが課せられた巨額の戦後賠償を支払うために、大量のマルク札を発行してハイパーインフレを引き起こしたというエピソードも、多分世界史の授業あたりで習ったのではないかと思います。そう言えば、この時の戦後賠償ですが、アメリカ向けの賠償を2010年まで92年かけて払いきった、というニュースがありましたね。すごいなドイツ人!他の戦勝国への賠償は2020年まであるそうですが、ドイツ人ならおそらくかっちり払い込むことでしょう。あと4年、頑張れ。

 話がまた逸れましたが、同じ「通貨法」で、硬貨は政府が発行できる規定になっています。つまり、政府は、政策的意図で紙幣は発行できないが、硬貨は発行できるということになるわけです。だから、政府が「1,000兆円玉」を発行することは、法的には認められるはずです。

 さて、仮に政府がこの1,000兆円玉を1枚発行したとしましょう。もちろんこのお金、市中に流通させることは絶対にできません(万が一市中に出たら、世界中の強盗やテロリストが日本に集結することでしょう)。政府は、発行後直ちにこれを日本銀行に預けることになります。すると、政府はいつでも1,000兆円分の紙幣を日本銀行から引き出せる状態になります。これで政府の借金が全部チャラ、という理論ですね。奇策ではありますが、法律上はここまで問題ないと思われます。

 日本銀行からすれば、受け入れるのが国債ではなく政府貨幣であるという違いだけで、1,000兆円が市中に放出されることに違いはありません。償還義務がない分、国債より政府にとっては有利でしょう。あと、国債の発行が抑制されるでしょうから、国債の利回りが低下すること、円の信用が低下するので為替相場は円安方向に振れること、インフレ懸念はありますが、1,000兆円程度であれば現在のデフレと相殺されてほどほどのインフレになるのではないかという予想もあるようです。逆に、事実上政府の政策によって日銀に紙幣を発行させることになるとも言えますから、日本銀行の独立性が脅かされるという点は見逃せませんが、これを制度化せず、特別立法で1回限りの施策としてやるのであれば、そんなに悪い考え方ではないのかな、と思いました。

 このプランについて、非常にバカバカしいとお思いになるかもしれませんが、実は2008年にノーベル経済学賞を受賞したポール・クルーグマン教授という方も、2013年のアメリカ政府のデフォルト危機の際に回避策の一つとして賛意を示したと言われていて、実際アメリカ政府でも「1兆ドル硬貨」の発行が検討されたことがあると言われています。

ポール・クルーグマン - Wikipedia

 日本は近年、ノーベル賞受賞者が多くなってきましたが、経済学賞はまだ日本人は取ったことがないんですよね。このぐらいエッジの効いたことを言ってくれる経済学者が出てきてくれたら、僕もちょっと本でも買って読みたいかなと思います。

 元の作品の話とは全く関係なくなってしまいましたが、こんなことをふと考えてしまいました。言葉が足りず、また拙い文章で読みにくかったと思います。あと、今日も本の感想を全然書きませんでした。タイトルに偽りのみ。ごめんなさい。

 では。

人類がついに寝言までシェアし始めました

 今日まで10連休の夏季休暇を取っていました。同僚も、少しずつ時期をずらしてですがそれぞれ夏季休暇を取っているので、幸い全体としてあまり仕事が進行しない時期ではあります。ただ、そうは言っても僕のデスクの未決箱にも決裁書類は溜まりますし、メールやグループウェアの回覧板も未読のままで溜まりますので、途中で二度、やむを得ず職場に顔を出しました。まあ、そんなことをしていたせいで「ああ休んだな」という実感も感慨もないのですが、そんな僕の気持ちに関係なく、明日からまた平常運転だという現実が何やらもの悲しい気持ちを運んでくるものですね。月並みですが、 光陰矢の如し、あるいは、駟の隙を過ぐるが若し、というやつですね。明日からお仕事という方もいらっしゃると思いますが、気を落とさず乗り切っていきましょう。

 ところで、唐突ですが、この連休中僕はだいたい1日7時間睡眠で過ごしていました。実は僕はどちらかと言えばショートスリーパーで、普段の睡眠時間は自然に1日5時間ぐらいになってしまうのですが、まあせっかく連休だしそんなにタイトなスケジュールがあるわけでもないので、ちょっと試しに睡眠時間を長めに調整してみようかと考えたわけです。

 理由は一つ。普段、寝ても全然疲れが取れないから。考えられる原因は二つ。

  1. 睡眠時間が少なすぎる
  2. 睡眠の質が悪い

 このうち、1.について検証してみようと考えたわけです。

 結論から言うと、7時間睡眠にしても、あまり体調にも変化はないし、連休中は仕事をしてないわけだからそもそも疲れていないわけですけど、考えてみれば5時間睡眠というのは自然に定着した習慣なので、別に無理して寝不足になっているわけでもないし関係ないか、ということになりました。たくさん寝たら寝たで疲れるというね。

 だとすれば、問題は2.、即ち睡眠の質でしょう。ただ、これはすごく難しい問題なんですよね。睡眠の質の良し悪しをどうやって測定するのか、もし悪かったとしてそれをどう改善するのか。この難問に、僕が自らの睡眠と闘い検証をしたメソッドをここに記しておきましょう。

 僕は、とても安直に、この問題をiPhoneのアプリを使って検証してみようと考えました。便利なものは使う主義です。そんなことをしてる間に病院に行け、という無粋なツッコミはノーセンキューなのです。

 

 まず一つは、これは以前から使っていた、「Sleep Cycle alarm Clock」というアプリです。

Sleep Cycle alarm clock - 睡眠アプリ

Sleep Cycle alarm clock - 睡眠アプリ

  • Northcube AB
  • ヘルスケア/フィットネス
  • 無料

  これは、AppStoreのランキングの上位に来ることもあるので、有名なアプリだと思います。起きる時間にアラームをセットして、シーツの端っこか枕の下あたりに挟んでおけば、指定した時間より前30分(設定で変更可能ですが)から指定した時間までの間で、眠りが浅くなったところを見計らって起こしてくれるという優れもののアプリです。

 これはこれで面白いし実用的です。いわゆるレム睡眠とノンレム睡眠というやつだと思いますが、眠りの深さをログを取っていてグラフで表示してくれたり、快眠度をパーセンテージで表示してくれたりします。

 このアラームで起きると、確かに寝起きはスッキリするし非常に楽です。ログが残るので、朝起きて全然疲れが取れてないなっていうときは、確かに深い睡眠が取れてなかったり、快眠度が著しく低かったりします。何回かログを取れば、自分の睡眠のリズムも何となく見えてくるし、睡眠の質の向上のヒントぐらいは見つかるかもしれません。

 強いて難点を言うなら、最悪起床時間より30分早く起こされてしまうことでしょうか。「スッキリするけどだいぶ早いわ!」と思うことがしばしばです。二度寝癖がある人は特に要注意。

 アプリ内課金がありますが、課金しなくても十分な機能が使えます。

 

 そしてもう一つ、今回新たに導入したのがこのアプリ。「Sleep Talk Recorder」です。

Sleep Talk Recorder

Sleep Talk Recorder

  • MadInSweden
  • ユーティリティ
  • 無料

  何となくお分かりかと思いますが、これもアプリを起動して枕元に置いておくと、寝言やいびきを感知して録音しておいてくれる、というアプリです。

 実は僕は、こういうアプリの存在は知っていたのですが、今まで怖くて使ったことがありませんでした。だって、自分が寝ている間にどんな寝言を言っているのかとか、どのぐらいいびきをかいているのかを、自分で聞くことになるわけです。僕だって、寝言も言わないしいびきもかかないと自分では信じているのですが、眠っている間のことなので、不安ではありますよね。先日も家族とキャンプに行って、ロッジの大部屋で皆で寝たのですが、もしかしたらとんでもない恥ずかしいことになっていたかもしれないわけです。それが、このアプリによって白日の下にさらされるわけですよ。

 あるいは、睡眠時無呼吸症候群などの疑いがある方はそれも確認できると思いますので、その方面ではすごく有用だと思います。

 試しに何度か使ってみた結果、僕はどうやら寝言は「うーん」ぐらいしか言わないタイプみたいです。ただ、かつて寝言で夜中に大声で「部長!」と叫び、その自分の声に驚いて飛び起きたという経験があるので、寝言では結構な大立ち回りをしているのではないかと恐れていたのですが、普段はあまりないみたいです。いびきも、全くないとは言いませんが、ほとんど録音されませんでした。

 あと、このアプリの面白いところは、録音した寝言をシェアできる機能でしょうか。しかもそれが、国ごとに人気のある順にランキングされ、聞くこともできるんですよ。今のところ日本で不動の人気を誇る寝言は「ミスターショウタイム」ですが、今後さらに爆笑ものの寝言がシェアされる可能性もあり、ランキングから目が離せません。現在3位の「んんんん...可愛いやん。」や5位の「リリアの長芋」も捨てがたい魅力のある寝言ですし、7位の「奥様にも」は最後まで聞くと「全僕が泣いた」と言ってあげたいぐらいの仕上がりです。

 一応付け加えておきますと、こちらはアプリ内課金をしないと十分な機能が使えないので、課金(120円)が必要と考えた方がいいかもしれません。

  それにしても、人類はついに寝言までネットにシェアし始めたのだな、そして世界中の寝言が誰もがアクセス可能なビッグデータとしてネットの海に蓄積されていっているのだな、と思うと目頭が熱くなるのを禁じ得ません。僕も、爆笑寝言が録音できた日には世界に向けてシェアすることもやぶさかではないのですが、先述のとおりあまり寝言を言わないタイプみたいなので、まだ遂行できておりません。

 

 最後に、「Sleep Cycle alarm Clock」と「Sleep Talk Recorder」を同時起動した場合にうまく動作するのか、という点についてはまだ検証ができていません。多分無理じゃないかな。無理な場合、気持ち良く目覚めることを優先するか、それとも爆笑寝言の録音というあくなきチャレンジを優先するか、深く悩むところです。

 なお蛇足ながら、結局こんなアプリでは僕の睡眠の質の改善など図れるはずもなく、いつの間にか目的を見失ってただ遊んでいるだけに終始している、ということに自ら気づきましたという独白をもって、この記事は締めさせていただきたいと思います。明日から仕事頑張ります。

 では。

森見登美彦さん『美女と竹林』を読んで

 こんばんは。

 まだ挨拶以外何も言ってないのに閑話休題。テーマとは全く関係ないのですが、前回の記事で書きました、山の日のキャンプに家族とともに行ってきました。キャンプということで、小学校2年生の姪はテントに泊まることを強硬に主張したそうなのですが、この僕が暑いさなかにテントに泊まるなど耐えられるはずもなく、また特に夜などはかなり不用心ですから、ここは大人と弱者の判断でロッジに泊まることにしました。BBQも楽しかったし、夜はエアコンの効いた部屋でリオ五輪を横目に家族麻雀をしました。言うまでもなく僕の2戦2勝でありましたが、与えられるのは家族の尊敬と最高の栄誉と「相変わらずえげつない麻雀しやがって」という褒め言葉のみなのです。家族麻雀界における絶対正義は「勝利至上主義」であり、奥ゆかしさや思いやりではないことを敗者どもは思い知ったことでしょう。

 

 さて本題です。

 ブログ開設時の最初の記事にて、以前別のブログサービスでブログを書いていたと書きました。

stiltzkin.hatenablog.com

 当時のブログもいろんな記事を書いたのですが、その中で読書記事も結構書いていて、アクセス数も他のジャンルの記事に比べて多くいただいていました。そしてブログを書かなくなって、読書メーターに簡単な感想を書くようになったのですが、あそこは文字数制限が厳しく、どこがどう「面白かった」のか「面白くなかった」のか、あるいはそこから自分がどう「考えたのか・感じたのか・学んだのか・変容したのか・見切ったのか」ということを、きちんとした文章で伝えることは無理なのかなと思います。あと、僕は使っていませんが、ブクログAmazonのレビューは「☆いくつ」で評価するシステムがありますが、評価が楽な「☆いくつ」のシステムは、ユーザーはどうしても自分のつけた☆の数に引っぱられてしまうので、読書家がせっかくその本から受けた本来の精神性の表現や感想、書評の姿からは遠ざかってしまうのではないかと思っています。僕は、感想を☆の数で表現するのはちょっと難しいし、みんなが感想を☆の数に収斂させてしまうのは少し怖いかな。

 まあ能書きはそれぐらいにして、今回は久しぶりの読書記事を書いてみたいと思います。今後、読んだ本全ての記事を書くことは難しいと思いますが、気が向いたら書きたいと思います。

 なお、以下は以前のブログのときもお断りしていたことです。

 理想的な書評というのは、内容やあらすじの紹介と感想とが5:5というのが理想的な比率だというのを何かの本で読んだ記憶があるのですが(ニコ生で岡田斗志夫さんが言ってたのかもしれません)、僕はそういうセオリーどおりの読書記事は書きません。セオリーどおりの感想記事って、ネットにいくらでもありますから、今さらそんなものを書いても面白くないですしね。その点、予めご容赦ください。

 

  さて、今回は、今僕が最も尊敬する作家のお一人である、森見登美彦さんのエッセイ『美女と竹林』を読みましたので、思ったことを書きたいと思います。

美女と竹林 (光文社文庫)

美女と竹林 (光文社文庫)

 

 ちなみにこれ、はてなブログの「Amazon商品紹介」という機能を使って貼り付けているのですが、アフィリエイトの登録とか一切してないのでご安心を。 

 簡単なあらすじ(?)や感想は、読書メーターの方に上げていますので、省略します。読書メーターの方も、お気に入りさんを広く募集していますので、よかったらぜひ。

bookmeter.com

 この作品は、一言で言うと、とにかく「竹林を刈る」というテーマのエッセイをいかに竹林を刈らずに書くか、みたいな壮大な机上空論実験のようなもので、これをしっかり読める一冊に仕上げるところがさすがとしか言いようがないのです。

 このエッセイを読んで、僕もつらく悲しい思い出がフラッシュバックしてきました。

 ちょうど3年前の春に、僕は社内のあるプロジェクトチームに参加することを上司から命令されました。他社のことは僕はよく分からないのですが、弊社ではプロジェクトチーム方式というのは、良く言えば社内から組織の垣根を越えて精鋭を集めて事業を進める手段であり、悪く言えば困りごとがあると組織から切り離して僕のような弱気な人を集めてチームを作って丸投げする最終手段なのです。しかも、プロジェクトチームは本来の職務と必ず兼務するため、プラスアルファの仕事になってしまい、非常に負担が重くどうしても後回しになりがちなのです。しかもその時は、前任のプロジェクトリーダーが、予期せぬ人事異動でプロジェクトに関われなくなってしまったことによる再編成で、そういうときは普通チーム内部のメンバーの誰かが新リーダーに昇格するのが筋だろうと思うのですが、その時に、プロジェクトの存在は知っていたものの見て見ぬふりをしていた僕に良く言えば白羽の矢が立ち(悪く言えば罠に嵌められ)、上司の命令でいきなりリーダーとして放り込まれたのです。メンバーは10人ほどで、良く言えば新進気鋭の精鋭たち、悪く言えば新進気鋭のお人好したちでした。

 このプロジェクトは、具体的には書けないのですがある事業に関する調査研究チームで、1年半後の夏には成果報告を大きな学会だか研究会だかで発表しなければならないことになっていました。しかも、研究論文も書かなければならず、集録として有償で頒布されるため40,000文字程度というノルマまでありました。まあそれは、一夜にして14,000文字オーバーのブログ記事を書く僕からすれば、そのうち本気を出せば万が一には何とかなるかもしれない文字数か、と少し甘く考えていました。

 しかし、現実はそんなに甘くなかったのです。僕が2代目プロジェクトリーダーに就き、過去1年間の成果物を前任のリーダーに求めたところ、「そんなものはありません。逆にあると思ってましたか?」という開き直りとも逆ギレともとれる回答があり、目が点になりすぎて完全な白目になるぐらい驚きました。まあ僕が見て見ぬふりをしてきたのも、どうも「こいつら全然プロジェクト進んでないんじゃないか」というようなえもいわれぬ不安感を肌で感じていたからなのではありますが、1年間の成果がゼロ、1文字たりともないとは、もはや逆に清々しいほどで、ここがサバンナだったら全力で一発殴っていたところです。

 でも、着任早々に論文には着手しなければ間に合わない。今思えば、あの時僕の足にまとわりついていた小さいおじさんこそが締切次郎だったのかもしれません。

 僕は悟りました。このチームは大事な1年を無為に過ごし、成果らしい成果も挙げていない。成果はこれから作っていく。ただ、いわゆるPDCAサイクルを1回まわすだけでも最低1年は必要なのに、原稿の締切は4か月後に迫っている。そう、何かが僕に、質量保存の法則を超越し、無から有を創造せよと命じている!PDCAサイクルは現場で回すんじゃない、机の上で回すのだと!

 そこから僕は、妄想と言っても差し支えないような机上空論実験を繰り返し、あるはずのない成果を錬金術師の如く机上で創造し、現状を大天使のように肯定し、データを意のままに解釈し、謎のカタカナ語や難解な四字熟語を駆使し、誰も読んだことがないようなドイツ人の文献を合法的に引用したりしながら、締切前にノルマを大きく超える45,000文字の原稿を書き上げたのです。あの時は、もし僕が中世ヨーロッパに生まれていたならホムンクルスの一つも作り出せていたのではないかと思うぐらい頑張りました。

 そして、僕が悪魔に魂を売ったとの誹りも免れぬ鬼畜の所業で時空の歪みからこの世にひねり出した、ただただ読み手を翻弄し議論を迷宮に誘い込むためだけの論文は、難解すぎてプロジェクトのメンバーすら全く理解できない仕上がりとなり、チーム内での審議に真空のような無風状態を生み出し、稟議にかけてもほぼ無修正で決裁が下りるという前代未聞の事態になりました。きっと上司の未決箱の付近も時空が歪んでいたのでしょう。僕は恐怖感と罪悪感と達成感で灰になり、その後本番直前に僕も人事異動になったため、リーダーから解放されました。もちろん、心底ほっとしたのは言うまでもありません。あの後、論文から発表原稿やプレゼン原稿を起こした人、誰だか知りませんが本当に困惑したことでしょう。書いた本人も理解していなかったのですから。僕も発表は聞きに行ったのですが、正直本当に何を言っているのか分かりませんでした。僕が新手の言論封殺の手段を生み出した瞬間を見たとも思いました。

 完全に脱線しましたが、多分『美女と竹林』も、だいたいこんなプロセスで生み出されたエッセイなのかもしれません。違うかもしれませんけど。

 人は追い込まれれば、森羅万象を遍く机上で生み出せる。机上に生きる多くの人々に夢と希望を与える森見さんのエッセイ、とても面白かったです。もしよろしかったら、ぜひ。

 では。