言の葉と文字列のあいだ

少しの間、あなたの時間をください。

人はなぜかけすぎるのか

 あれはまだ、桜の舞い散る出会いと左遷の季節のこと。僕が9日間の入院で楽しく遁世することを企図していたころ、スガシカオ部長は持ち帰り牛丼の紅ショウガが少なすぎるとTwitterに書き込み、さながら盛大な焚火の様相を呈しておりました。

 あれ以来、部長はめっきりかけすぎなくなってしまわれました。お立場のある御仁ゆえ、それも致し方なしというものでありましょうか。

 というか、このツイートのどこにそんな可燃性の高い燃料があるのか、見当もつきません。別に吉野家さんの対応に文句を言っているわけでもないし、誰を傷つけているわけでも迷惑をかけているわけでもないと思うのですが。

 人はなぜかけすぎるのか。かけすぎることは悪なのか。

 その答えを探すべく、今日は部長に成り代わり、世界の理の探究者たる不肖この私が、及ばずながらかけすぎてみました。

 最近職場の近くに、本格的で美味しくて、しかもランチタイムにはすごくリーゾナブルに食べられる蕎麦屋さんができたのですが、行きません。だって、ねぎフリーじゃないから。

 うどん屋さんも、鍋焼きうどんが有名ですごく美味しいお店があるのだけど、行きません。ねぎを大量に追加してほしいというと、大将が採算がとれなさそうな悲しい顔をするから。

 僕のようなねぎフリーカーの中には、ランチの選択肢が丸亀製麺一択になってしまったという人も多いことでしょう。それは、お店を「ねぎをかけすぎることができるか」の一点のみでセレクトした当然の帰結なのでありましょうが、誠にお気の毒としか言いようがありません。同志よ、同じ空を見ながら、今日もかけすぎているか。家族とねぎを大切にしているか。そうか、それならよい。ますます精進されよ。あと、僕は丸亀一択ではないからご安心を。

 さて、人はなぜかけすぎるのか。

 今日、僕は一つの答えに到達しました。

 普通の人の認識している世界は、うどんの薬味としてねぎが位置付けられており、ねぎフリーなものだから、かけたりかけなかったりするのだと思うのです。

 しかし、僕が認識している世界は、ねぎのアテとしてうどんが位置付けられており、ねぎフリーなものだから、自分が食べたいと思う量だけかけてしまうのです。

 それは「焼肉には白飯が合うね」という人の時空と「白飯には焼肉が合うね」という人の時空の歪みに道義であり、お互いは鏡の向こう側の世界の住人だということなのです。部長の心情を慮るに、おそらく牛丼は紅ショウガを美味しく食べるための具だと考えておいでなのではないでしょうか。

 ただ、社会的少数者であるかけすぎ部の一人として、鏡の向こうにいるであろう皆さんにきちんと説明をしておきたい。

 紅ショウガも、ねぎも、混雑しているときには我々はちゃんと遠慮しているのだと。鏡を隔てても、常に私たちは友好を望んでいます。本当は一人でも多くの人に、ねぎを味わってほしいと願ってはいるのですが、ただ自らの欲望に抗うこと能わずなのだということなのです。そして、明日からもより一層の鍛錬が必要であるなと深く反省し、今日の記事はここまでとさせていただきたいと思います。

 では。