言の葉と文字列のあいだ

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『天空の城ラピュタ』論、新説「ムスカ大佐実はそんなに悪人じゃない説」を提唱する

 本日の記事、14,000文字オーバーの長文です。内容的には割と読み応えがあると思うのですけど、そこそこ我慢強い方でないと読破できない可能性があります。もしよろしければ、お暇なときにゆっくりお読みいただければ幸いです。また、全ては個人の私的見解に基づくものですので、多少の事実誤認等はご容赦願います。

 

 昨晩、テレビで『もののけ姫』が放送されていましたね。実は僕は一度も通して見たことがなく、昨晩も見ませんでした。僕は、宮崎駿監督の作品というのは、クオリティの高い素晴らしいアニメ映画だとは思っているのですが、正直に言うとあまり好きではないんです。「見てないくせに」というご批判もあるかとは思いますが、実は『カリオストロの城』から『千と千尋の神隠し』まではちゃんと全作見ておりまして、その上で「これ以上見ないことにしよう」と不退転の決意をした次第です。

 理由は一言では説明しづらいのですが、宮崎監督の思想にあまり共感できないというか、ちょっと視点にバイアスがかかりすぎていてついていけない気がするから、という感じです。

 では具体的に、どんなバイアスがかかっていてどうしてついていけないのかを、例を挙げて説明したいと思います。宮崎監督の最大のヒット作は『千と千尋の神隠し』なのだそうですが、もっと分かりやすく、何度もテレビ放送されている『天空の城ラピュタ』を題材に説明をしたいと思います。

 この説明にあたり、私が立てた仮説として、「ムスカ大佐実はそんなに悪人じゃない説」をここで提唱したいと思います。この仮説と、私が言う「バイアス」には密接な関わりがあります。

 ムスカ大佐はご存じのとおり、『天空の城ラピュタ』では主人公のパズーやシータに対する敵役であり、怪しげなファッションに慇懃無礼な言動、全然包み隠さない野心とラストの見事なやられっぷりで、子どもたちが非常に分かりやすく敵として認識できるキャラクター造形になっています。あと重要な設定として、本編で説明されているとおり、政府から派遣された特務機関の諜報員であり、大佐という階級でお分かりのとおり軍人、しかも将校であり、現状2人しかいないラピュタ王族の末裔でもあります。ちなみに28歳だそうです。

 それでは、『天空の城ラピュタ』を、ムスカ大佐の視点で振り返るとどういうことになるのか、そこからこの物語がどのように見えてくるのか、試しに検証してみましょう。

(1) 飛行戦艦がドーラ一家に襲撃される

 まず最初の飛行戦艦が襲撃されるシーン。もちろんムスカ大佐、全然悪くないです。理由はどうあれ、飛行戦艦を一方的に襲撃したドーラ一家が加害者、ムスカ大佐たちは被害者ということになります。この時点でシータがどのような意思を持っていたかは定かではありませんが、ムスカ大佐はシータに対して個室を与えるなどきちんとした待遇をしており、ドーラ一家が襲撃しなければシータも戦艦から落下したりせずに済んだことは疑う余地がありません。シータが飛行石を持っていて、しかもたまたまそれが発動したから助かったし、このことがきっかけでパズーに出会えることになるのですが、もちろんそんなことを予見しているはずがありません。ちなみに、その後ドーラ一家はムスカ大佐たちに報復され捕らえられることになりますが、ムスカ大佐の戦艦は正規軍の所属であり、それに対しドーラ一家はいわばテロリストです。正規軍がテロリストから先制攻撃を受ければ報復をすることは国際法上認められており、合法です。ドーラ一家も、そもそも日頃から海賊行為を働いており、パズーが言うには「海賊はしばり首」との共通理解がある(おそらくそういう法律がある)のでしょうから、それは承知の上の行動ということになるのでしょう。

(2) 鉱山列車で逃げるシータを装甲列車で保護しようとして失敗する

 この場面ではムスカ大佐は登場しませんが、正規軍の装甲列車がシータを保護しようとやって来たところで、ドーラ一家と鉢合わせしてしまいます。シータは逃亡を試み、パズーとともに廃坑道に落下してしまいます。これも、シータが軍隊を嫌っており、軍隊側も一方的で強引だという描写がされていますが、飛行戦艦から落下して行方不明になったシータを捜索して身柄を保護しようとすることは、軍隊として人道上当然の活動であり、シータ本人の意思はともかく、それが悪だとは言い切れません。

(3) 廃坑道から出てきたシータを捕らえる

 廃坑道から地上に出てきたシータとパズーを、ムスカ大佐たちが捕らえるシーン。当初は保護をしようとしていたのですが、これまでシータが積極的に逃亡を図っており、パズーという協力者までいる以上、例え子どもが相手だとしても、生命身体の安全を最優先にするために多少の威力行為は致し方ないかもしれません。子どもに銃を向ける描写とか、ムスカ大佐の「手こずらせたな」などのセリフも、いかにも冷酷な人物として描写されており、子ども相手にこれらの言動は確かに不適切ではありますが、まだ悪であるとは言い切れません。特にパズーは、シータの逃亡を幇助したことと正規軍への反逆行為が認められ、頭に銃把で一撃を喰らわされますが、この時点で客観的には、少年であるとは言え軍への反逆者であること、後に怪我も後遺症もなかったことが分かりますから、説得に応じなかった場合の緊急避難としては仕方がなかったかもしれません。

(4) ティディス要塞にて

  パズーについては、(3) での行動のため投獄されてしまいますが、ムスカ大佐はあっさりパズーを解放して帰宅させてしまいます。尾行もつけてないし、かなり高価と思われる金貨まで渡しているのだから、正規軍への反逆行為を働いた少年に対する処置としては、温情を通り越してもはやお人好しだとも言えるでしょう。一方で、保護したシータにラピュタ捜索のための協力を取り付けていますが、拷問など非人道的手段を使ったということもなさそうです。そもそも、ムスカ大佐はラピュタ捜索を政府の密命として遂行しているのであり(後にこれが別の意図を持った行動であることが分かりますが、この時点では任務をきちんとこなしています)、テロ行為を繰り返すドーラ一家を退ける一方で、シータをきとんと保護し、パズーも寛大な処置により無罪放免としており、悪どころか軍人としてかなり優秀な働きをしていると言えるでしょう。ちなみに、「娘は白状したか」「空中でたっぷり締め上げてやれ」などの非道な発言をしているのはモウロ将軍であり、ムスカ大佐はこの時点で手荒なまねは一切していません。

 また、その後「ロボットの兵隊」が暴走してティディス要塞が崩壊、シータの身柄はドーラ一家とパズーに強奪されてしまいますが、ロボットの兵隊を覚醒させたのはシータであり、ムスカ大佐はそれに対し、ロボットの破壊とともに「少女を傷つけるな」という命令を発しています。

 

 さてここまでで、一旦休憩します。『天空の城ラピュタ』は、このティディス要塞のシーンが中盤の山ですが、ここまででムスカ大佐は、印象が悪く言動も褒められたものではないものの、何一つ理不尽な悪事を働いていないことが分かります。むしろ、密命に従って淡々と任務をこなす優秀な軍人です。なのに、この時点で多くの視聴者が、政府も軍隊も悪、ムスカ大佐ももちろん悪、だと思い込んでしまっています。これが、僕が指摘する「バイアス」だと捉えてもらって差し支えありません。

 では、引き続きムスカ大佐の視点でストーリーを追いかけてみましょう。ここから後半です。

 

(5) ラピュタ到着直後

 無能で騒がしいだけのモウロ将軍に代わってムスカ大佐が適切な針路への航行を指示したおかげで、ゴリアテは無事ラピュタに到着することができます。その際、正規軍はシータとパズーを除くドーラ一家を捕らえますが、これも、元はと言えば正規軍に先制攻撃を行ったのはドーラ一家の方なので、当然のことです。

 モウロ将軍及びその部下は、ラピュタの財宝に目がくらみ略奪行為を働きますが、これに関しては、ラピュタはその時点では「国家」ではなく(国家の構成要件は、領土と国民と支配権の3つですが、ラピュタには国民もおらず支配権もありません)、いずれの国の支配権も及んでいない空白地なので、軍が最初に発見した財宝であればその国家の財産となります。もちろん、遺跡としての価値がありそうですから、あのような破壊行為は褒められたことではありませんが、それは彼らの国の内政問題です。ちなみに、ラストでドーラ一家の連中がラピュタの財宝を少量くすねていることが分かりますが、あれはもちろん立派な犯罪で、あれこそがまさに略奪行為です。一方で、ムスカ大佐自身は、ラピュタの破壊も略奪も行いません。

  一方、このあたりでムスカ大佐は実は政府の密命を利用して、ラピュタ王国を復活させようとたくらんでいることが分かります。ああやっぱりこいつこんなこと企んでやがったんだな、と視聴者が怒りに震え、クライマックスに向けて物語が大きく動くトリガーになるわけですが、これもよく考えてみましょう。これ、そんなに悪いことですか?

 最初に紹介したとおり、ムスカ大佐もラピュタ王族の末裔の1人です。過去に滅亡した母国の復活を願うことがそんなに悪でしょうか。過去に存在したラピュタ王国は、とても先進的で豊かな国だったようですから、もう一度そのような国を建国したいと願うことは、王族の末裔であれば抱いてもおかしくない心情だと理解できます。政府の密命の具体的内容も分からない(もしかしたら、ラピュタ王国を復活させて同盟を結ぶところまでが密命だという可能性もある)わけですから、これを悪だと決めつけるのもまだ早計であると考えます。

(6) 見ろ人がゴミのようだ

 さて、モウロ将軍と兵士たちを、例の透明の床の部屋に引き入れたムスカ大佐が、ソドムとゴモラを滅ぼした「天の火」だとか「インドラの矢」だとかいうのを見せて、ラピュタの軍事力を示威するシーンです。ムスカ大佐は、ちゃんと「天の火」を無人の海上に向けて発射しているわけで、これはいわば軍事演習(デモンストレーション)に当たる行為です。映画を見る限り、どこかの国の領海でもないみたいだし、人的被害も出てないようなので、軍事演習として必要十分な配慮をしていることが分かります。一方で、モウロ将軍は、ムスカ大佐に恭順の意を示すと見せかけて暗殺を試み、失敗します。

 何度も言いますが、ムスカ大佐は正規軍の軍人でしかも将校ですから、未遂に終わったとは言え暗殺を企て実行したモウロ将軍の行動は政府に対する反逆行為であり、ムスカ大佐が反撃をするのは当然です。その後将軍の部下もムスカ大佐に対し攻撃を加えようとしますから、ゴリアテごと殲滅されるのはいわゆる「返り討ち」であり「自業自得」なのです。先に手を出した方が悪いに決まっています。確かに、「最高のショウだと思わんかね」とか「見ろ人がゴミのようだ」とはなかなかクズなセリフですが、ゴリアテを乗っ取って先制攻撃をしてくる反乱軍と、やむなく現地で調達した超強力な兵器で反撃する正規軍との戦争行為ですから、国際法ムスカ大佐の行為に違法性はないと考えられます。

(7) 玉座の間にて

 ラストで、シータに向かって銃を発砲し、飛行石の返還と命乞いを強要した件については、シータが髪を切られるという実害もあって、これは非常に悪いことです。いくら精神的に追い詰められた極限状態だとしても、こんな行為は児童虐待以外の何ものでもないので、絶対に許されません。ムスカ大佐は軍人ですから、軍法会議にかけられて裁かれるべきでしょう。何らかの処分が出る可能性が高いと思います。

 そして、おなじみ「バルス」によってラピュタが崩壊し、ムスカ大佐も失明の上死亡し、めでたしめでたし、ハッピーエンドとなるわけですが、これもムスカ大佐からすれば納得がいかないでしょう。彼の視点で見ると、「さすがにちょっとひどくない?」と思うわけです。確かにシータに銃を向けて、しかも発砲もしていますから、幸い命に別状はなかったとは言え、最後の最後に大変悪いことをした人物であることは間違いないのですが、玉座の間までは、そんなに悪いことはしてないんじゃない?かばうわけではないけど、イメージだけで大悪人というレッテル貼りをしてないか?と思うわけです。

 シータもラピュタ王族の末裔ですが、ムスカ大佐も同じく末裔です。途中で述べた「国家」の3要件のうち、この時点で領土と支配権は回復することができつつあったわけですが、国民がいないため、国家とは認められません。ただ、他国を征服したりせずとも、例えば地上から移民を受け入れるなどの方法で国家の3要件を回復できる可能性があるわけで、ムスカ大佐はラピュタ王国を再び建国できる可能性があったと推察されます。でも、シータはそれを望んでいません。ではどうするべきか、というのは非常に難しい問題ですが、それにしても個人的に王国復活を望まないからいきなり「バルス」はないでしょうよ。ムスカ大佐にだって、ラピュタに関する権利の半分ぐらいはあるかもしれないわけですよ。これって、屋敷の相続でもめた親族の一人が気にくわないから放火して全部燃やしちゃった、というのと同じレベルの話です。確かに「天の火」は核兵器を想起させる恐ろしい兵器ですが、だからと言って別に実際に他国を侵略したわけでも誰に実害を与えたわけでもない、建国間近の国をいきなり子ども二人のその場の判断で滅亡させてよいとはちょっと考えられません。

 

 というわけで、『天空の城ラピュタ』をムスカ大佐視点で見ると、多分こんな感じになります。かなり宮崎駿監督の思想的バイアスがかかっていますよね?お気づきでしょうか。整理すると、

  • 「政府・軍隊=悪」「政府・軍隊に逆らうもの=善」というバイアス
  • 「軍事力=悪」「軍事力への抵抗=善」というバイアス
  • 「文明=悪」「自然=善」というバイアス

 この作品は、「悪」を一手にムスカ大佐に背負わせ、「善」をシータとパズーに背負わせる構造です。視聴者は当然シータとパズーに共感して物語を追いますから、宮崎監督のバイアスにまんまと引っぱられることになるわけです。でも、これって絶対の価値観でしょうか?どっちかのウイングに偏ってないか?と違和感を感じる人もいるのではないでしょうか。

 しかし、振り返ってムスカ大佐の視点で物語を追ってみると、最後の玉座の間以外ではそんなに悪いことはしていないことが分かります。そうしないと、ムスカ大佐のキャラクター造形(有能な軍人で時宜に応じた合理的行動を取る人物であるという造形)ができなくなってしまうためだと思われます。

 宮崎監督のバイアスに関しての是非は問いませんが、実は「善」と「悪」というのは個人の良心の中にのみ存在するもので、それぐらい曖昧で不安定で主観的なものであるのだと思うのです。この映画も、価値観の強制こそしていないものの、無意識のうちに視聴者(特に子ども)の価値観に一定のバイアスをかけてしまっていると考えれば、僕の言う違和感もご理解いただけるのではないかと思います。もちろん、バイアスは即ちメッセージ性ですから、それ自体は悪いことではありません。ただ、それを好み、認めるかどうかの問題ではあると思います。

 

 最初に申し上げたとおり、宮崎監督の映画は素晴らしいクオリティだと思いますし、だからこそ僕も何作も見たのですが、少し視点を変えて見てみると、違った見え方がしてくるものだな、と興味を持っていただけると幸いです。

 長文大変失礼いたしました。関係ないですが、西尾維新さんの筆が速く、1日に9,000文字書けると調子が良いみたいな話を何かで読んだような気がしました。僕も毎日9,000文字を書くのはさすがに無理ですが、たまにはこれぐらい書いてみるのも良いものだと思いました。

 では。